金箔の歴史
金箔の歴史
約1万分の1ミリ(約0.1ミクロン)という驚きの薄さを誇る金沢の金箔。では、いったい日本において金箔がいつ頃から作られたのでしょうか?どのようにしてここまで薄く金を打ち延ばせるようになったのでしょうか?正確なことはわかりませんが、中国大陸から伝わった製箔技術が日本で独自の形として定着したと考えられます。その成果が白鳳、天平の文化を頂点とする古代日本の繁栄に多量の金銀装飾として発揮されていたことは想像に難くありません。飛鳥、天平文化を彩る寺院建築や仏像彫刻として東大寺大仏殿や唐招提寺の千手観音、平安時代の中尊寺金色堂、室町前期北山文化を代表する金閣寺、桃山時代の屏風や襖絵、江戸時代の日光東照宮や美術工芸品にと、金箔は芸術性を高める重要な資材として使われてきました。元来、日本の建築や家具の多くは木材が素材であり、漆と同様に相性が良かったことも定着した理由の一つかもしれません。いずれにしても金箔は文化遺産の価値・芸術性を高め、わが国の重要文化財を現代まで伝えるための大きな役割を果たしたことは間違いないでしょう。
では、金箔が金沢で作られたのはいつ頃のことでしょう?文献の上では、前田利家が文禄2年(1593)に豊臣秀吉の朝鮮の役の陣中より、国元へ金箔・銀箔の製造を命じたと記されており、この時に金沢で初めて作られたとされています。このこともあり、利家が金沢に入城以前から石川県に箔の職人がいたのではないか、と言われています。
幕府は寛文7年(1667)に各藩に命じて貨幣の鋳造を禁止し、貨幣材料である金銀銅の地金を管理統制、元禄9年(1696)には江戸に箔座を設け、全国の箔の生産、販売を統制してしまいます。後に箔座は廃止されますが、その権限を金座に移し、金箔・銀箔の生産は江戸、京都以外には許されない時期がありました。
文化5年(1808)焼失した金沢城・二の丸御殿を再興するために多量の金箔が必要となり、京都から金沢に箔打職人が呼び寄せられ、これを機に製箔業を確立しようとする動きが生まれます。幕府が文政年間に3度、箔打ち禁止令を出しているのですが、箔づくりの動きはおさまらず藩の細工所を中心に箔の打立てがひそかに続けられました。一方で、箔の製造販売について幕府の公認を得たいとする箔屋の運動は粘り強く進められ、弘化2年(1845)にようやく江戸箔売りさばきの許可が下ります。この間、金沢の金箔職人達は江戸、京都から購入した金箔・銀箔の打ち直し、あるいは銅・真鍮箔の打立てという名目を隠れ蓑として、金箔・銀箔を隠れて打ち続けました。箔売りさばきの特権を得てからも運動は続き、元治元年(1864)藩の御用箔に限って打ち立てて良いとの免許を得ることに成功します。これを機に、金沢の金箔は、一気に進展をとげることになります。明治維新後、幕藩体制の崩壊により、箔の統制はなくなり、その庇護下にあった江戸箔業も消えてしまいます。江戸時代最大の供給源だった江戸箔がとだえたことで金沢箔の地位が相対的に上がったのです。また箔の生産、販売が自由になったことで金沢の箔づくりは進み、全国市場での地位は優位になりました。第一次世界大戦時には、供給の止まったドイツ箔に代わり金沢の箔が一躍世界的な座にのし上がり、それと同時に多量の箔需要を満たすため、どんどん箔打機を設備するようになります。人の手による槌打ち作業に比べ、著しく生産能率が向上していきました。第二次世界大戦中は、金銀をはじめとする金属類の使用が制限されたため、金沢の製箔業は一時壊滅状態になりますが、金沢箔はこのような歴史的要因と併せて、箔づくりに適した気候、気温、良い水質に恵まれた金沢の環境もあり、さらに磨かれ盛り返してきたのです。
金箔は、宗教工芸の主要な資材として、仏壇・仏具等に使われ、また多くの生活工芸品や商業美術の資材として、金屏風・西陣織・漆器・陶磁器・額縁・扇子・襖絵・壁紙・水引・金看板・金文字等々に使われてきました。昭和52年(1977)には、我が国の伝統的工芸品産業の用具材料部門において、初の通商産業大臣指定を受け、さらに日本の生活文化に深く広く取り入れられていきました。金箔の伝統技術はこれからも永く受け継がれていくことでしょう。